100430 人の見えない町

   

 昼から町に出る。こうした時はできるだけ歩くようにしている。今日は荷物が多くなる予定なので、車をyoumeタウンにおいて、そこから小幡記念図書館まで歩く。来年からは図書館に通うことが多くなると思う。ここは市立なので蔵書はそこそこあるほうだが、読みたい本、新しい本は少ない。それでもここのいいところは希望する本を申請すると購入してくれる制度のあることだ。こちらが知らないだけどこにでもあるのかもしれないが・・・・。これまで何冊か頼んだがダメだったことは一度もない。この頃、警察小説に凝っているのでこれからは申請していこうと思っている。今日は夢枕獏の陰陽師シリーズ「大極の巻」を借りた。彼の小説は好きなほうだが、これまでで一番良かったのは「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」全4巻である。

 図書館を出てグッデイに向かう。諸町から日の出町を通り駅へと向かうが、見事なくらい人を見ない。日の出町の入り口で高校生らしい(3人ともだぼだぼのトレーナーの下に、どうかすると素肌の腰が見えるほど短いTシャツ である)女の子が3人、地面に置いたラジカセから流れる音楽に合わせて踊っている。もちろん、手足や腰をくねくねさせる今流行の踊りである。それを遠巻きにして男の子が何人か座り込んで見ているが、ほとんどはちらっと見ただけで通り過ぎていく。

 日の出町の中に入ると、通りの真ん中に桜のつもりだろう造花が並べられている。ところが、この通りを駅まで歩く間にすれ違ったのは自転車を押して歩くおばちゃん3人組みだけ。日曜日の昼間なのにこれである。30年前には「夜市」があって、この通りは人で埋め尽くされ、子どもの手を離さないようにするのに苦労したものである。その時は大変だったが、今は懐かしくて仕方がない。やはり、人がいてこそ、人の気配を感じることできてこそ「町」である。人間は「人の間」に生きてこそ人間であるとはよく聞く言葉だが、この頃物理的に人の気配が薄くなってしまい、それにつれて精神的にも人とのつながりが感じられなくなってしまった。

 歩きながらつらい半日だった。(4/18)

100427 イタチ

 3月の「にぎやかで、はなやかな」庭は、いつに間にか花も散ってしまい、静かな庭に戻っていた。花は落ち着いたが、代わりに緑が増えた。小学生の頃、下の娘が近くの男の子たちに「お前んとこはジャングルやの~」といじめられて嫌だったといつか話していたが、その話を聞いて私は娘には悪いが内心にやっとした。

 よく他人から、もう少し庭に石なんか置いて庭らしせなな、と言われたりもしたが、そうした庭は庭のような気がしなくて、木や草は植え、雑草は取るがあとはできるだけあるがままの姿で通してきた。生り物(柿や橙など)が多いなあとも言われたが、少しずつ植え替えてきたもみじや椿、利休梅にヒメシャラ、タツナミソウや十薬にワレモコウなど、ずいぶんお気に入りの庭になってきた。

 その代わり放っておくとこの時期毛虫だらけになって、木の下を通っただけで激しく反応してしまう連れ合いに文句を言われ、慌てて消毒することになる。土曜日と日曜日の半日を使って生垣(これには梅雨時になるとカタツムリがわいて出て、近所の男の子たちの遊び場になってしまう)の剪定と片付け、消毒に追われた。折りたたみの椅子を持ち出して袋に入れてごみに出せるように枝を小さく切っていた時のこと、「ユウ」のお墓のところをなにか生きものが動き回っている。黄色で、細長くて、顔はかわいい。イタチだ。

 時たま、夕方、道路を横切るのを見たり、水路に逃げ込むのを見ることはあったが、庭の中を、それも昼間に出てきて、顔を上げてこちらを見て逃げ出しもしないなんてのはこの家に移り住んで30年、初めてである。小さかったのでまだ子どもだったのか。それとも庭が彼らにとって我が家になってしまったのか。

100424 鹿

 

               鹿                      村野四郎

    鹿は 森のはずれの                 彼は すんなりと立って
    夕日の中にじっと立っていた            村の方を見ていた
    彼は知っていた                    生きる時間が黄金のように光る
    小さい額が狙われているのを           彼の棲家である
    けれども彼に                     大きい森の夜を背景にして
    どうすることが出来ただろう

  この作品は、村野四郎の「鹿」という作品の中にある一行である。佐伯城南中学校に勤めていた時、、中国研の城島集会で佐伯市の発表の資料として、詩の授業をしてその内容をレポートにまとめるという担当になった。当時使っていた光村図書の教科書にあったこの詩を使うことにしたが、授業をどう展開するかに悩み、仲の良かった二つ下の、それも社会科担当の先生と夕方生徒昇降口の階段に腰掛けて話し合ったことを覚えている。

 結局この詩の中心である「生きる時間が黄金のように光る」に少しでも迫るために、2行目の「じっと」と7行目の「すんなり」の違い、動きを考えさせてみようとなった。授業の結果は、ある女の子がこの詩の世界を「色」で表現してくれたことで救われた。それ以来、詩の授業を大事にしてきたし、この言葉、「生きる時間が黄金のように光る」はいろんな場面で使ってきた。たとえば、卒業のサイン帳に、結婚式での寄せ書きに、別れの言葉に・・・・・・。

 その言葉が目の前にある。そして、それを書いた人は私がある中学校で担任をし、国語を教えた人だと教えてくれた。ひょっとして、その言葉は、私が授業で使ったかもしれないし、ひょっとして、卒業の時書いてあげたものかもしれない。それがその子の記憶の中にずっと残り、今、形となってこの作品になったと考えると幸せな気分になっていく。(4/11)

100422 書道展

 
 

 「 ジャスコの2階で、私の習っている書道教室の展示会が今度の土・日にあります。見に来ませんか。抹茶とお菓子の接待もありますよ」とメールが入る。結局、最後の「抹茶とお菓子」という言葉が決め手になりました。

 素晴らしい作品が並んでいます。習い始めてもう10年になるそうだが、「ほ~!」と感心しきり。ところが、ほとんどの作品が漢字ばかり。なんと書いてあるのか全然分からない。意味が分からないと文字(あえて漢字とは言わない)は単なる記号になってしまう。いつだったか、「あなた、国語の教師でしょう」と言われたのがトラウマになってできるだけこういう場所には近づかないようにしてきた。

 そうした中でも親しみやすい作品もある。「平々凡々 生きるのが いやだった過去・・・・・・・」は好きな作品だ。まず、何を書いているのかがよく分かる。そして、「平々凡々に 生きるのが一番 むずかしいと わかった今の 自分」という心境も今の自分に重ねられて親しみが湧く。そしてなにより、この作品がメールで招待してくれた方の作品であるということが一番の理由かもしれない。

 もう一つ、記憶が一気に20代にまで飛んでいった作品があった。それについては次回のブログで。
 なんでもネタになるんですね、と言われそうだ。

100420 京都物語5(祇園・巽橋)

 銀閣寺のバス停で連れと別れる。私は17:52の新幹線まで時間があったので、タクシーの運転手が教えてくれた祇園にあるという巽(たつみ)橋までひとりで行くことにする。100番に乗って運転手さんに「このバスは祇園に行きますか?」と聞くと、女性の運転手さんは、このバスのすぐ横にいる203番に乗ったほうが早く着くから、次のバス停でそちらに乗り換えなさいという。おまけにこのバスの代金はいいから、遅れないように早く行きなさいとまで言ってくれた。こんなこともあるんだね。

 祇園のバス停に着くが巽橋の場所が分からない。こういう時はすぐ聞くことにしている。連れ合いも娘もそういう私をきらうのだが・・・・。客待ちをしているタクシーの運転手に聞くと、道筋を二度も丁寧に教えてくれた上に、「行くととにかく人が群がっているからすぐ分かるよ」とニヤニヤしながら教えてくれた。

 その言葉の通りたしかに人が群れていた。あとで聞くとここは観光スポットになっていて雑誌などで取り上げられているとか。広い通りまでのわずかな距離だが、桜と柳と白川(名前まで情緒がある)と古い町並みがなんともいえない風情をかもし出している。おまけに地名は「祇園」。おそらく夜になるとはなやかな通りに一変するのだろう。

 この時間になると、気温はぐんぐん上がり、日も差してくる。何日か前の予報では雨と出ていてがっくりしたのがうそのようだ。この旅はほんとに天気に恵まれた。《 おわり 》 

100418 京都物語4(哲学の道)

 今日もスタートは清水さんから。そこまではあまりに乗客が多かったのでタクシーを使ったが、京都は市営バスが便利だ。番号で行き先が分かる。銀閣寺に行くには100か203である。メーターのところが賃走となったタクシーが多く走っているが、グループでなければ一日バス乗り放題のチケットを使った方がずいぶん経済的である。

 銀閣寺前のバス停で降りると右手に琵琶湖疏水に沿って桜並木が続く。「哲学の道」である。哲学者の西田幾多郎が思索にふけりながら歩いたという逸話から名づけられたというのは有名な話。だれが言い出したのか、ネーミングの勝利。この名前がいったいどれだけの人を惹きつけたか。前回(といっても学生時代、40年以上も前である)とずいぶん印象が違っている。もっと狭い道で、もっとひなびた印象を持っていたのに、ずいぶんはなやかになってしまった。

 写真でも分かるとおり、人、ヒト、ひと・・・・・・の波である。穏やかな陽気と満開の桜、まだ散り始める前の一番鮮やかな色の、いちばん華やかな時である。これだけたくさんの雑誌、マスコミに取り上げられれば当然のことか。近くにはたしか「法然院」があった。ほとんど訪れる人のいない、静かなしずかなお寺であり、京都での一番のお気に入りの場所だった。それと当時は拝観料なる下世話なものは取っていなかったといまだにしつこく覚えている。

 人と、もったいない話だが1キロもの桜並木に酔ってしまい、南禅寺をあきらめて(惜しかった!昔よく出かけたあの明治時代に造られたという水道橋はもう一度見たかった)途中から引き返す。道の入り口にあった「かぎ富」という小さなそば屋さんに入る。場所は抜群なのになにしろ席が5つしかない。けっこう待たされてしまった。(4/5) 

100416 京都物語3(円山公園から知恩院へ)

     
 三年坂 振り向いてはいけないとか なしか!  二年坂  かの有名な「よーじや」

 翌朝、もう一度清水さんをお参りする。帰りに「七味家」の手前を右に曲がる。三年坂を通り二年坂へ。三年坂では振り向いてはいけないと言うが、なしか!この辺りは古い京都の趣を残している。というよりそれを売りにしている。しかし、どこかのようにほとんど残っていないのに、城下町を宣伝しているのとは訳が違う。やはり、それなりの情緒があって、歴史の重みを感じさせる。

 高台寺では若い男が門前に出てさかんに「しだれ桜」が満開になっていることを宣伝しながら客引きをしていた。どうみてもあれは客引きだ。ところが、拝観料が600円ときては客引き行為が裏目に出て意地でも入りたくなくなる。彼の横を知らん顔をして、昨夜は引き返してしまった円山公園に向かう。意外にすぐ近くだった。

 すごい人の波だったが、あこがれの「円山公園のしだれ桜」が妙に貧弱に見える。観光雑誌なんかにはこの世のものとは思えないライトアップの姿を見せているのだが・・・・・。枯れた枝も残っていて・・・・・・なんで残しているのだろう。そうか、夜ならあまり目立たないか。

     
 昼間は枯れ枝が目立つ  圧倒的な三門  御影堂

 円山公園から見て右の山手の森に巨大な伽藍が見えている。疲れて歩けなくなった連れを残してひとりで出かける。思い切って出かけてよかった。目の前に圧倒的な存在感で三門がのしかかってくる。その三門の先にも石段(男坂)があって、その先に何かがある(当然か?)ことを予感させる。肉ばなれを起こして痛いはずなのに、この時ばかりは必死でその痛い足をあげている。現金なものですね。そして、男坂を登りつめるとその先には御影堂が。「法然上人800年忌」という大きな看板が立っていた。そういえば、今年は親鸞聖人も800年だったはず。西本願寺とこの知恩院はどちらが大きいのだろうか。テレビの特集で見たが、西本願寺の方が大きいと思うのだが、周りが山に囲まれているだけに知恩院の方が大きく見えてしまう。(4/5) 

100413 京都物語2(清水寺)

   
   

 京都駅前のホテルにチェックインをしたあと、すぐに清水寺に出かける。姫路城に負けず劣らずここも人の波。ここは修学旅行で何度も訪れているので記憶は確かである。七味家も、清水焼の「ひろた(毎回1個の珈琲カップを買うのを楽しみしていた)」も、土井の志ば漬もまだ覚えていた。

 以前連れ合いと姉夫婦とライトアップされた紅葉を観に来たことがある。もう何年前になるか。たしか龍安寺(定かでない)とこの清水寺(確信あり)だった。その時の印象が強烈だったので、ほかはどうでもここだけは、それも夜に絶対訪れるぞと意気込んでやってきた。・・・・良かった!連れは何度も感嘆の声を上げる。こんな満開の、おまけにこんなに暖かい、穏やかな夜に、鮮やかにライトアップされた桜を観ることのできた幸せを、何度もなんども言葉に出したほどである。清水の舞台から観る桜も、遠くの京の町の夜景もいいが、池に映った夜桜となると幻想的ですらある。この池の景色は季節は違うが、前回も観た覚えがある。

 一つだけ残念なことがある。それは三脚を持ってこなかったことである。夜景モードで撮るのだが、シャッタースピードが遅くなってどうしてぶれてしまう。それが分かっていたから何度も持ってこようとしたのだが、それでなくても荷物になるからとあきらめたのである。案の定ほとんどの夜桜の写真はぶれたり、ぼやけたりしてしまった。また機会があるなら、今度こそ三脚持参だと肝に銘じた。(4/4)

   
   

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